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【報告】「忘れていても、仏さま、いつもみていてくださるの。~金子みすゞの生涯と童謡に学ぶ仏教SDGs~」

2026.01.19

 2025年12月16日(火)、13:30~15:00龍谷大学大宮学舎西黌3階鍋島直樹氏(本学文学部教授)の研究室において、研究会「忘れていても、仏さま、いつもみていてくださるの。~金子みすゞの生涯と童謡に学ぶ仏教SDGs~」が開催された。

 はじめに、鍋島氏はシリア出身の研究者ナーヘド・アルメリ(Nahed ALMEREE)氏の指摘に共感したとして、アルメリ氏の金子みすゞ研究の成果を取り上げた。
 アルメリ氏は『金子みすゞの童謡を読む 西條八十と北原白秋の受容と展開』(港の人、2020年)において、みすゞの生命観の独創性を西條八十や北原白秋の視座と比較して述べる。みすゞの作品は、白秋のようにこどもの世界のみを対象とせず、こどもの視線を用いて人間全ての世界で共通するような出来事や身のまわりの自然の要素に対する考察をうたっており、こどもと大人の間の垣根を取り払うように意識されている。また、作品の中で情景や抒情を伝えるのみならず、複眼的で多次元的なエコロジカルな世界を展開するとともに、読み手の意識や思考に強く働きかける詩の世界を作り上げた。そのため、みすゞの作品には八十とも白秋とも異なる、「やさしさ」だけにとどまらない独創的な作品世界の特長が見出せると、アルメリ氏は指摘する。
 鍋島氏はアルメリ氏の指摘を踏まえて、みすゞが編纂した『琅玕集』には、白秋が二九篇、八十は十八篇が収録されていることに言及し、八十の童謡は自身の感情をうたう抒情的で一元的な世界観であり、白秋はこどもの視点を尊重し、その詩「金魚」では母の帰りを待つこどもが「母ちゃん、帰らぬ、さびしいな。金魚を一匹絞め殺す。」と残酷さを描いていると述べる。一方で、みすゞの詩は「大漁」「私と小鳥と鈴と」などに象徴されるように、人間からの視点だけでなく、魚や土や雪、浜の石、小鳥と鈴などの視点からうたわれ、人間と異なるものたちが感じる寂しさや喜びをそのまま受容し、生き物や自然の多様な視点を尊重しているという。

 また、鍋島氏は、みすゞの詩「ぬかるみ」にはみすゞが悲しみの中で見出した深い願いが表れていると述べる。

   ぬかるみ
  この裏まちの
  ぬかるみに
  青いお空が
  ありました。

  とほく、とほく、
  うつくしく、
  澄んだお空が
  ありました。

  この裏まちのぬかるみは、
  深いお空で
  ありました。
    (与田凖一 ほか編『金子みすゞ童謡全集 空のかあさま』JULA出版局、1984年、153頁)

 「ぬかるみ」の前半は、「裏まちのぬかるみ」に「青いお空」「澄んだお空」が映っている事実をうたい、後半は、「裏まちのぬかるみ」そのままが「深いお空」であったというみすゞの発見がうたわれている。
 ぬかるみ「は」、「深いお空」であったという表現に展開しているのは、ぬかるみ「は」青い空と一つであることへのみすゞの気づきを示している。「は」は、ぬかるみと深いお空が=(イコール)であり、全く一つになって存在していることを示しているという。
 みすゞは「深いお空」の「深い」という表現にどのような意味を込めたのだろうか。みすゞはぬかるみの表面に映る「青いお空」「澄んだ空」だけを見ていない。ぬかるみの深い底の泥まで見とおしながら、その泥のぬかるみ自体が青く澄んだ空と一つになって「深いお空」になっていることを表現しているのだろう。ぬかるみという言葉からは、困難に陥る、複雑化することを思い起こさせる。しかし、抜け出すのが困難な「ぬかるみ」自体が空を映し、「深い空」になっていたことにみすゞは気づいた。その意味において、この世界のぬかるみのようなつらい状態が、そのままで深い空と一つになり、青く澄んだ空はいつでもぬかるみを包み込んでいることをみすゞはうたっている。泥のようなつらく悲しいことが深い空のような広がりをもち、光を受けて輝いていることをみすゞはこの詩を通して教えてくれると鍋島氏は述べる。
 また、鍋島氏は、みすゞの詩に感じる深い優しさは、存在の孤独さや寂しさを知ったところから生まれていると指摘する。悲しみを知った優しい言葉は力をもって、こどもや寂しい人々の心を勇気づける。そのことは、現在においても、みすゞの詩が世界各国で翻訳・出版され、世界中の人々に愛読されている事実が証明している。
 また、鍋島氏は、みすゞの童謡が優しさだけでなく、「異なる視点や一致しない感情を、無理に同化しようとせず、異なるものの同時存在を容認している」(『金子みすゞの童謡を読む 西條八十と北原白秋の受容と展開』港の人、2020年、86頁)というアルメリ氏の指摘を紹介する。アルメリ氏は、みすゞの詩はこの世の全てのものが絶対的な一つのものの下に属するのではなく、あらゆるものが重なり合い、密接に共存していることがうたわれている、とみすゞの仏教的な生命観について言及し、その詩から一神教における絶対的な世界の支配者である神の在り方とは異なる「神さま」の在り方に気づく機会を与えてくれた、と述べている。
 鍋島氏は、「アルメリは自らの文化や信仰と異なるみすゞの宇宙観に学び、人間と生き物と自然の声なき声を聞いて、すべての存在の尊さに眼を開いた。みすゞとアルメリは時代も国も宗教も異なるが、それらの境界を超えてこだましあっている」と述べる。

 最後に、鍋島氏は、みすゞの詩は想像ではなく事実に基づいているとして、その詩「不思議」「蓮と鶏」「浜の石」「土」「明るい方へ」などは、いのちの不思議な事実を発見し、自分の見方を転じて生き物や自然から生きる意味を学び、悲しみがそのまま光となって輝いていることを私たちに届けている、と述べた。真実を明かした言葉は、いつの時代にも人々の心に大切なことを気づかせる力となって活きつづけ、真実の言葉のみが光となって人々の心を照らしつづける。白蓮華が泥の中から泥にまみれずに咲き、泥の水たまりが青い空を映し、広く澄んだ空と一つになるように、悲しみを乗り越えることはできなくても、悲しみが大悲にいだかれて生きる力となることをみすゞは伝えている、とまとめられ研究会は終了した。