【報告】クィア仏教学研究会「浄土教思想とLGBTQ+ -女身往生説の解釈をめぐって-」
2026.02.24
2026年2月11日14時より、クィア仏教学研究会「浄土教思想とLGBTQ+ −女身往生説の解釈をめぐって−」が開催された。
はじめに司会の那須英勝氏(本学教授)・宇治和貴氏(筑紫女学園大学教授)による趣旨説明がおこなわれたのち、工藤量導氏(大正大学専任講師)による講演がおこなわれた。工藤氏は浄土宗総合研究所においてLGBTQ+に関する研究プロジェクトに携わっており、近年同研究所より刊行された『カラフルな共生社会を目指してーLGBTQ+についてみんなで考えるー』の編集業務にも従事されている。

近年の仏教界において、性的マイノリティをめぐる理解と制度的対応が急速に進展しつつある。各宗教団体においても性的マイノリティについて考えるさまざまなブックレットが発行されている。このように、寺院現場や実践面において、宗教者はいかに性的マイノリティの方々が直面する苦悩について支援しうるか点検することは喫緊の課題である。そのような視点より浄土教研究を回顧すれば、古来より議論されてきた「女人成仏」や「女人往生」といった課題についても、「性の多様性」という視点から再把捉する契機が生じている。前出刊行物も、そのような関心から作成されたものである。また同ブックレットには問題提起ののちに「阿弥陀仏のまなざし」として、「念仏を唱えた者は性別の区別はなく、無条件に救われる」「極楽浄土はそれぞれの個性が尊重される共生(ともいき)の世界である」という浄土教の教えをもって締めくくられている。しかし工藤氏は、浄土教典籍に説かれる世界が「本当に性差の区別なく個性を尊重しているだろうか」という疑問を抱き、それが今発表の契機の一つとなった。
■女人往生と女身往生

さて、ポール・ハリソン氏は「浄土に生まれる女たち」(『仏と浄土:シリーズ大乗仏教五』2013)において、「女身往生説」すなわち「女性がその身のままで極楽往生できるか」の可否に焦点をあて、文献学的批判に基づいて考察しているが、工藤氏の研究もそのような視点に着想を得たものである。本発表では以下の3点に着目し、本問題について語られた。
①仏土における女人の存否と迦才『浄土論』の解釈
②世親『浄土論』の「二乗種不生」の文をどう解釈するか
③『無量寿経』の因順余方説
■インド成立の浄土教典籍における女人への言及
『大阿弥陀経』『無量寿経』世親『浄土論』など、インド成立とさる浄土教典籍には女人に関する種々の説示があるが、その所説はそれぞれ異なる立場を示している。具体的にいえば、初期浄土経典である『大阿』では「極楽には女性はいない」と説かれているが、のちに訳出された『無量寿経』では女人の往生の可能性を完全否定はしていない。ポール氏はこの点について、「論調は軟化されている」とするものの「極楽には男女の区別はない」という現代的解釈を支持するには不十分であるとする。また、世親『浄土論』でも、浄土は平等一如であるとするが、「女人・根欠・二乗種は不生」(以下、二乗種不生)であると説いており、女人往生は否定しないものの女身往生については否定的に受容されてきた。しかしながら、インドの浄土経典論における女身往生説は必ずしも一様ではないということが確認されるのである。
■迦才『浄土論』の西方浄土および他方仏国土の女人観
しかし、浄土教思想は後代、中国・新羅にいたって多様な解釈が受容されていくのである。唐代の迦才『浄土論』では、阿弥陀仏の極楽浄土の四因縁不退説が説かれるが、その中に「無有女人(女人あることなし)」が示される。その理由として、浄土に女人がいないことは性愛の抑止につながるからであると説かれているため、迦才においては男性同士の性愛は想定していないと考えられる。
一方で迦才は、阿閦仏国である東方妙喜世界には男女が雑居すると示す。ただしそれは妙喜世界が下位の浄土である理由として説かれるものである。この点についても、男性から女性への性愛が一方的に問題視されていることが根底にある。
しかし、迦才は女人往生については可能であると示しており、世親『浄土論』に説かれる「二乗種不生」についても、経論に基づいて修行すれば男女問わず往生可能とする。

■「二乗種不生」の解釈
迦才以降「二乗種不生」はたびたび議論されてきた。ただしそれは「二乗種」が中心の議論であり、「女人」「根欠」についてはあまり中心的に扱われてこなかった。その中で伝基『西方要決』、伝智顗『浄土十疑論』、玄一『無量寿経記』の説示は注目される。
『西方要決』では「根欠」を「黄門(性的不具者)」と理解し、黄門の往生は可能であると解釈する。また『浄土十疑論』は「二乗種不生」を会通する根拠として『無量寿経』の第三十五願を積極的に採り上げている。そして玄一の「『無量寿経』は女人不生を直接的には説かない」という主張も注目すべきであるが、本書には男性優位の言説も散在する。このように隋唐代にいたって浄土教には多様な女人観が看取される。
■因順余方説
『無量寿経』における「因順余方」の解釈すなわち「浄土は平等一相であるのにも関わらず、なぜ人天などの区別が説かれるのか」については、義寂『無量寿経義記』と龍興『観経記』が注目される。義寂『無量寿経義記』では先述の「二乗種不生」とともに「因順余方」の解釈を用いて、性差に関する議論を展開している。そして龍興『観経記』では「界は有りて根は無し」といい、「極楽は男性だけの世界である」という従来の説に一石を投じているのである。
結論として、浄土教では伝統的に「女人往生」はほぼ認める一方で、「女身往生」を明確に主張する文献を見出すことは難しいと考えられる。しかし、従来重視されてこなかった文献から現代的課題を取り組むための思想的資源に展開可能な解釈、すなわち①性差の超越と男でも女でもない存在②多様な性の往生への視座③因順余方説による論理的基盤の確立、の三点を見出すことが可能であると述べ、講演を締めくくった。
講演ののち、コメンテーターである宇治氏によるレスポンスがなされた。
宇治氏は、「女性が男性の修行を妨げる」という概念が異性愛を前提とし、さらに仏教者・教団がそれを問題視していないという現状がある。そのような前提そのものを問題視する上で、工藤氏の講演は意義あるものであると述べられた後、「再解釈可能なテキストを持っていることが普遍宗教ではないか」と提起された。
例えば、神学の立場ではテキストの再解釈が試みられており、普遍を示すためには時代に沿ったテキストの再解釈が可能である。そのような視点から見ても、工藤氏が紹介してきた浄土教の展開とは「浄土は平等である」という前提と現実の不一致を解決すべく再解釈が試みられてきた軌跡なのではないだろうかとも考えられる。

また、テキストに「男性優位」という前提があることは共有されたが、では「それを超えていく方法はなにか」を模索する営為が必要になってくるのではないだろうかと宇治氏は述べる。少なくとも本研究会では、「十方衆生」と説かれながら「男性しか設定されていない」浄土の前提に疑問を持つ契機となった。それはもしかすれば、ジェンダーと宗教を二律背反にすることで、結果としてホモソーシャルを肯定する地盤ができてしまったのではないかとも想像されるのである。
クィア仏教学はただの理論や学問に収斂すべき分野ではない。現実の抑圧や痛みが前提にあり、それらをいかに論理的に解決しうるか。なぜ差別があるか、なぜ差別が教団内におこるのか、現実に立脚しながら実践・理論構築をおこなっていくことこそがクィア仏教学としての視点であろう。すなわち価値観・正統を疑い、それでも普遍とされているものは何かを模索することが本研究の基本的スタンスであろう。昨今、さまざまに社会や政局は変動していくが、世間やマジョリティに流されることなく、「平等」を求め続けるものが仏教でありたいとの言葉でコメントを締めくくられた。
その後、質疑応答が行われた。フロアやオンライン参加者から多くのコメントや質問があり闊達な議論が行われ、盛況の内に閉会となった。
