Center for Humanities, Science and Religion (CHSR)

人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター

ホーム 研究 人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター > News > 【報告】特別講演「みんなちがって、みんないい。~みすゞ甦りとまなざし~」

【報告】特別講演「みんなちがって、みんないい。~みすゞ甦りとまなざし~」

2024.06.06

2024年6月5日(水)10:00よりはじまった「金子みすゞ展」の開催を記念し、同日11:00より本学本館2階講堂にて金子みすゞ記念館館長の矢崎節夫氏をお招きして、特別講演「みんなちがって、みんないい。~みすゞ甦りとまなざし~」が開催された。

鍋島直樹本学教授

最初に鍋島直樹本学教授より本展示会の開催趣旨および金子みすゞの生涯やこれまでのみすゞの詩の展開について説明された。

金子みすゞは1903年、浄土真宗や浄土宗などの信心の篤い山口県大津郡仙崎村で生まれ、以降、1930年に逝去されるまでに現存する限りで512もの詩を遺した。みすゞは亡くなる前、弟正祐に三冊の童謡手帳と遺書を届けた。その童謡の大半は未発表のまま、長年等閑に付されてきた。1982年、矢崎節夫氏はみすゞの三冊の遺稿手帳が弟正祐の手元にあることを発見した。この発見により、みすゞの童謡が世界中で出版されて甦ったのである。では、みすゞの「みんなちがって、みんないい。」の優しいまなざしはどこから生まれきたのだろうか。それを共に見つめ直したい。それがみすゞ展の開催趣旨である。

趣旨説明の後、矢崎節夫先生よる記念講演が行われた。

当時、知る人ぞ知る童謡詩人であった金子みすゞの詩は、いまや国語や道徳の教科書に採用されており、現在34歳以降の日本で学んできた学生は、かならず金子みすゞの詩を学んでいることになるという。またみすゞの詩は日本だけでなく中国の教科書に採用されたり、英語やハングル、ジョージア語などさまざまな言語に翻訳され、世界に拡がっている。では、金子みすゞの詩がどうしてこのようにさまざまな地域や人々に受け入れられたのか。矢崎氏はいくつかのみすゞの詩を例に挙げつつ、その魅力を語られた。

矢崎節夫氏

■大漁

 朝燒小燒だ/大漁だ/大羽鰮の/大漁だ。//濱は祭りの/やうだけど/海のなかでは/何萬の/鰮のとむらひ/するだらう。(新装版金子みすゞ全集2−101)

 「大漁」は矢崎氏が金子みすゞ作品を探求する契機となった作品であるという。若くから児童文学を志していた矢崎氏は、北原白秋や西條八十らを輩出した早稲田に入学する。そこで「大漁」の詩と邂逅した矢崎氏は、他の児童文学・童謡にはない衝撃を覚えた。その詩は、 よろこびとかなしみは同時であることを気付かせた。それは、どちらが上か、どちらが先かではない。同じく大切なものである。わたしがいわしに生かされていたことに気付かされ、その詩に衝撃を受けたと語られた。

■こだまでしょうか・さびしいとき

「遊ばう」つていふと/「遊ばう」つていふ。//「馬鹿」つていふと/「馬鹿」つていふ。//「もう遊ばない」つていふと/「遊ばない」つていふ。//さうして、あとで/さみしくなつて、//「ごめんね」つていふと/「ごめんね」つていふ。//こだまでせうか、/いいえ、誰でも。(同3−237,238)

私がさびしいときに、/よその人は知らないの。//私がさびしいときに、/お友だちは笑ふの。//私がさびしいときに、//お母さんはやさしいの。//私がさびしいときに、/佛さまはさびしいの。(同2−176)

これらの詩からは、宗教の、「親さま」と呼ばれる阿弥陀仏の大切さ・ありがたさを感じ取ることができる。

これらで注目すべきは、自分がさびしいときに友達は笑い、母は優しく、仏はさびしいという鮮やかな対比である。それは、自身の苦しみを親や仏は、何も言わずに理解し、その人の立場に寄り添うから、「やさしい」であったり一緒に「さびしい」のである。

しかし友達は言葉で説明しないとわからない、でも言葉は不完全である。それなのに我々は苦しいことを伝えているのに「なぜ理解してもらえない」と苦しんでしまう。だからこそ、「さみしい」を「さみしい」とうけとってもらえる存在の大切さが際立つのである。

■私と小鳥と鈴と

私が両手をひろげても、/お空はちつとも飛べないが、/飛べる小鳥は私のやうに、/地面を速くは走れない。//私がからだをゆすつても、/きれいな音は出ないけど、/あの鳴る鈴は私のやうに/たくさんな唄は知らないよ。//鈴と、小鳥と、それから私、/みんなちがつて、みんないい。(同3−145)

この詩には、「できないこと」「しらないこと」しか書かれてない。それが「みんなちがって、みんないい。」と肯定されていく世界に気付かされる。つまり「できなきゃいけない」のではなく、「できなくていい」からこそ喜びがあるのだと矢崎氏は語られた。

最後に、矢崎氏は詩を読むことについて、金子みすゞの詩はどんな読み方をしても正解であるから、ぜひ自分にとって嬉しい詩をみつけてほしいと受講者に話された。詩は読むものではなく、覚えるものであるとも語られた。ふと詩を思い出したとき、そのときの思い出が甦ると矢崎氏は語られた。

今回の展示会においても、是非ともみすゞの時代にふれあい、みすゞの詩に触れ、みすゞの世界を体験してほしいという言葉で本講演は締めくくられた。

(PD西村慶哉)