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親鸞における信仰の構造と実践の関係

2022.08.29

テ ー マ 親鸞における信仰の構造と実践の関係

講  師: 宇治和貴(筑紫女学園大学准教授)

開催日時:2022年7月7日(木)11:00~12:30

場  所:龍谷大学大宮学舎北黌206

主  催:龍谷大学世界仏教文化研究センター応用研究部門

人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター(CHSR)

参加人数:13名

【開催概要】

【特別講義】

 宗教は、人間の宗教的心理の中から表出し、歴史的社会的な営みを通しながら発展してきた。であれば、過去の宗教者や宗教的集団の社会的営みを歴史状況の中で捉えていくことで、その宗教の本質(また、信仰がどのような実践を行うか)を伺うことができるであろう。

 筑紫女学園大学の宇治和貴氏を迎え、信の構造と社会実践(生き方)の関係について特別講義をいただいた。このテーマは、親鸞を歴史状況の中で捉え、その生き方がなぜ成立したのかをその信に見いだし、真宗という宗教がどのような生き方を成立させる宗教であるかを検討するものである。

まず宇治氏は、下田正弘氏(「仏教の社会実践を考えるためのいくつかの問題」)と、武邑尚邦氏(『仏教に於ける思惟と実践』「序論」2002)に依りながら、「思惟・沈黙まで含めて仏教に生きようとする人の生き方すべて」を実践と捉えていく。そして、二葉憲香氏の「宗教的契機(超時代的契機)と社会的契機(時代的契機)の対決(相克関係)」という考え方を基に、親鸞を歴史内存在として捉え、信心ゆえの行動を歴史的状況の中で分析するという方法をとる。これによって、真宗における「信(信心)」がどのような宗教的・社会的立場を成立させるかを明らかにするという。

さて、以上のような方法と立場を取りつつ、親鸞の信と実践を捉えていくのであるが、氏はその具体的事例として、親鸞の三部経千部読誦を挙げる。『恵信尼消息』には、健保二年、親鸞四二歳の時、上野国佐貫において飢饉や疫病に苦しむ衆生の利益のために三部経の千回読誦を始めた事が示されている。

この衆生利益の心が生じた根源を宇治氏は親鸞の信心に見る。『顕浄土真実教行証文類』「信文類」には信心の異名として、無上菩提心、願作仏心、度衆生心と示され、さらには一切衆生の苦を抜こうとするはたらきであると述べられている。また、現生十益の中に常行大悲が述べられ、「大慈悲はこれ仏道の正因なるゆゑに」とあることから、信心とは慈悲実践志向主体を成立させる根拠であるという。

一方では、親鸞には自力心の否定としての罪悪の自覚が多分に表現されている事には注意をしなければならない。これらを千部読誦に当てはめると、

①衆生利益の為に三部経千部読誦を思い立った。

②同時に、自己に巣くう自力の執心の発見となった。

③そして、本願力廻向の信にもとづく自信教人信=常行大悲にもとづいた実践の立場へと復帰した。

と見ていくことができる。

信仰が成立した主体のうえでは、大悲の実践が志向される。同時に、大悲を実践しようとするたびに完遂できずに自己の自力の心を再発見することとなる。自己の罪障・煩悩具足の現実の自覚は、本願力廻向の信に基づく実践を再志向するという、実践とそれによって生じる罪障の自覚が繰り返し行われることを親鸞の歴史的実践の上に確認することができる。

さて以上のことから、親鸞における信心の特色を氏は次のようにまとめる。

1、他力回向の信により慈悲実践志向の主体が成立する。

2、自身の罪障の自覚・凡夫の自覚を促すもの。

3、自力ありとする心を翻し、すべてのいのちある存在とともに生きていこうとする。

4、悪には好んで近づくべきではないとの判断が成立する。

親鸞の信と実践は、「友や同朋をねんごろにするなど、慈悲を志向する実践を行う」ことと、「実践の根拠としての信が廻施されているにもかかわらず、煩悩がなくならない自己を知る」という円環的に成立していると見受けることができ、これこそが親鸞の信の構造と実践の関係であるとする。

最後に梯實圓氏の

「大悲を行ずる」ということが、自他を分けへだてする「私」という小さな殻を破って、万人と一如に感応しあい、自在に人びとを利益することであるとすれば、それはただ、如来にのみ可能なわざである。しかし凡夫であっても、万人を平等に救うと仰せられる阿弥陀如来の大悲招喚に応答して、大悲の本願に身をゆだね、その広大なはたらきに参加することは許されている。いいかえれば、如来の大悲に呼び覚まされて、苦しむ人々と連帯しつつ、自他ともに大悲に包まれていることを讃仰するような身にならしめられることを「常に大悲を行ずる益」といわれたのである。

(梯實圓『教行信証の構造』)

という言葉を紹介し、念仏者が阿弥陀如来の常行大悲のはたらきに参加することが許されているとして発表を終えられた。

【コメント】

【鍋島直樹(文学部教授)】

三部経千部読誦などの親鸞の実践は、歴史的に断罪され、信心が完全なる人格を成立させると捉えられることが多い。しかし、信心に生きるというのは、如来回向の信心と現実の現場のとの緊張関係の間で揺れつつ、反省を繰り返しながら現場・自己に向き合うことである。梯氏の「如来のはたらきに参加することは許されている」とは、私たち一人一人にも許される事であるとコメントされた。

参加者と講師の間では次のようなディスカッションがなされた。

【参加者】内省や思惟が実践に含まれるという発見は大きかった。

【宇治氏】反省は、実践の成果であり経過であるため、実践の定義を明確に捉え直して直していく作業が大切。

【参加者】具体的実践ばかり注目されることが多く、信心と社会実践と言うテーマは真俗二諦が想像される。その上で、「罪障・煩悩の自覚」と「社会実践」が円環的な構造になっている発想が印象に残った。

【宇治氏】真宗者の社会活動の根拠としての信心があることで、具体的実践の反省や、振り返りの根拠ともなる。これによって、単に社会に求められる行動や社会に合わせた行動に対し、迷いなく進むことはなくなるのではないか。

【参加者】実践の根拠が存在すると、失敗したときに再び戻ってこられるという事なのか。

【宇治氏】実践の根拠が存在することで、明確な失敗が成立する。如来の本願は私たちにかけられる願いであり、できる限り本願に示された生き方に近い生き方をしたいというのが大悲に参加する事ではないだろうか。

最後に鍋島教授から丁寧な謝辞が行われ、特別講義を終えた。

(報告・文責RA山田智敬)